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札幌高等裁判所 昭和48年(う)268号 決定

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人武田庄吉、同和田壬三共同提出の控訴趣意書に、これに対する答弁は、札幌高等検察庁検察官石黒久提出の答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらをここに引用する。

弁護人の主張する控訴の趣意は、被告人が原判示のように本件犯行の共謀に関与したことはなく、これを肯定する原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある、というに帰し、検察官の答弁は、原判決の認定は正当である、というのである。

そこで、一件記録および証拠物を精査し、当審事実調の結果をも参酌して審案するに、原判決の摘示する、犯行にいたる経緯、罪となるべき事実等は共謀の点を含めすべて優にこれを肯認することができると考える。以下、控訴趣意の指摘する論点につきさらに検討を加えることとする。

一被告人が人口水増しの指示をしたか否かについて。

原判決は、昭和四五年八月二三日、羽幌町長である被告人が同町町長公宅に同町総務部長藤沢一雄(原審共同被告人)、同町企画経済部長端崎順治および同町民生部長蓑谷宗次を召集して部長会議を開いた際、藤沢がその席に同町国勢調査臨時調査室長伝馬一幸(原審共同被告人)を呼び寄せ、伝馬から、同年七月末現在における同町の公表人口は約三万一、〇〇〇名であるが、真実の住民登録人口は約二万四、〇〇〇名であつて、その間に六、〇〇〇名から七、〇〇〇名もの差がある旨の説明がなされ、これをめぐつて種々意見がかわされたのち、被告人が伝馬に対し、同町の市制化実現に必要な人口数を確保するということで、同年一〇月一日施行される国勢調査での人口数を二万七、〇〇〇名ないし二万八、〇〇〇名程度に操作するように指示し、「責任は俺がもつから。」と言つた旨認定し、この事実が本件犯行に被告人を結びつけ、被告人の有罪を根拠づけたものであることは、原判文上明白である。

これに対し所論は、昭和四五年八月二三日町長公宅で部長会議が開かれたことはなく、同日はもちろん、それ以外の日にも被告人が右のような指示をしたとは認めがたいと主張する。

しかしながら、昭和四五年八月下旬頃の日曜日(これが同月二三日であるか否かについては、のちに詳説する。)、原判示のとおりの状況下で被告人が伝馬に対し国勢調査人口数の水増しを指示したことは、伝馬および藤沢が原審公判を通じ共同被告人として繰り返えし供述し、原判決後も、別件の蓑谷に対する偽証被告事件(以下、単に別件ともいう。)の公判において証言し(別件公判調書中の各供述部分の謄本、ただし、伝馬につき二通、藤沢につき一通。なお、別件公判における各証人の供述は、その供述部分の謄本によつて証拠調べがなされているが、以下便宜別件証言、別件供述等と略称して引用する。)伝馬は当審公判においても同旨の証言をしているところである。これらの供述は、瑣末な点で多少の差異がみられるとはいえ、大綱において一貫し、内容上も格別不審を感じさせないし、伝馬らの経歴、地位、被告人との関係等にかんがみると、同人らがことさら被告人を罪におとすような虚偽を作為したものともうかがうに困難である。

のみならず、(イ)伝馬および藤沢の右各供述によれば、同人らが右の数日後羽幌町役場町長室において、同町助役酒井清作(原審共同被告人)に対し、被告人から前記のような指示のあつたことを伝え、事務処理につき指示を仰ぐと、酒井は前回の国勢調査の事務担当者らを呼び、人口数の操作が事務的に可能であることを聞き出したうえ、伝馬らに被告人の指示どおり作業をすすめるように命じた、というのであるが、酒井も原審公判でこれを全面的に肯定しており、右の事実は動かしがたいといわなければならない。伝馬らが人口数の水増しを酒井に相談し、その指示を受けたこと自体、伝馬らが被告人に対しても同様に相談し指示を受けたであろうことを推測させる一事情であるが、伝馬らが酒井に対し被告人から指示を受けていると告げ、酒井が当時もその後もこれに何らの疑問も抱いていないことにも注目すべきである。伝馬らは酒井に相談するに際し、被告人の指示を求めていなかつたのであれば、その旨を率直に言つてこれをも相談すれば足りたのであり、被告人の指示を受けていないのに、これを受けたように強いて嘘言を使う理由は少しもなかつたのである。してみると、この伝馬らと酒井との間の交渉をめぐる事実は、被告人が人口数の水増しをするように指示したとする、伝馬らの供述を裏付ける有力な事情であると考えられる。

さらに、(ロ)前記端崎も、不明確な個所があるにせよ、昭和四五年八月か九月初め頃の日曜日町長公宅で部長会議が開かれ、その席に伝馬が国勢調査の問題で被告人の指示を仰ぎに来た際、被告人が「二万七、八千あればいいが」などと人口水増しの指示と受取れる発言をした旨供述していること(原審第三回公判調書中証言記載、同第五回公判における証言、別件証言)、

(ハ)被告人の妻松本広枝は、伝馬は一回だけ町長公宅に来ているが、それは炭礦問題のやかましかつた年の夏、部長会議が開かれていたときのことである旨供述し(原審および別件の各証言)、前記蓑谷も、昭和四五年七、八月頃町長公宅の玄関先で伝馬を見かけたことがある旨供述している(原審証言)こと、

(ニ)被告人は、昭和四六年一一月二七日頃、北海道庁から事実確認調査に来ていた平野耕志に対し、「人口水増しを指示した覚えはないが、もしも水増しがあつたとすれば、立ち話程度で、二万八、〇〇〇名ぐらいあればいいということを言つたことがあるので、部下がそれを指示として受取つたかもしれない。」旨を話している(原審証人平野の尋問調書)ほか、司法警察員に対し、昭和四五年八月二三日町長公宅で部長会議を開いていた際、その席に来た伝馬から、公表人口と実態人口との間に相当の開きがあるとの報告を受け、「公表人口と国勢調査人口とに余り差があつては困るな。」との趣旨のことを言つたことまで認め(昭和四六年一二月二八日付供述調書)、また、原審第六回および第七回公判においても、明確さに欠けるうらみはあるが、同じ部長会議の席で伝馬から国勢調査の人口問題について相談を求められ、「そんな話は俺のところに持つて来るな。助役と相談しろ。」と言つて叱つたとの趣旨を供述していること、

なども、伝馬らの供述を支えるものである。

加えるに、関係証拠によれば、羽幌町では、昭和四二年春頃から引続き住民登録人口数の水増しがおこなわれ、その結果は秘密文書で被告人に報告されていたが、伝馬や藤沢はこの間の事情を了知しており、また、本件国勢調査に際しては、伝馬によつて、七九名もの国勢調査員を動員して、実人口の四分の一を上まわる、わきめて大量の水増しが実行されていることが明らかであり、これを背景にしてみると、伝馬らが本件の人口水増しをあらかじめ被告人にはかり、その指示を受けたことは、ごく自然の推移として理解されるのである。

他方、当審証人都築一は、昭和四七年一二月二〇日頃忘年会の席で藤沢から、被告人が本件国勢調査における人口水増しを知らなかつたと言うのは本当だろうとの話を聞いた、と証言しているが、たとえ藤沢が実際にそのようなことを言つたとしても、発言の経緯や内容、その場の状況、両者の関係等に徴し、いまだこれによつて藤沢の本件部長会議に関する前記供述の信憑性が左右されることになるとは思われない。また、被告人は、捜査段階から当審公判にいたるまで、伝馬に対し前記のような指示をした覚えがない旨を供述し続け、蓑谷も原審証人として同様の供述をしているけれども、これらの供述は、そのうちに先に摘記した、本件部長会議の状況にそう部分が含まれるなど、内容的にみて、伝馬らの供述以上に信をおきうるものとはいいがたい。

以上を総合し、日時および動機に関連してのちに述べるところをも考えあわせると、原判決が認定摘示する、被告人が伝馬に対し人口水増しの指示を行なつたとの事実およびその際の諸状況は、容易にこれを肯認することができる。

二昭和四五年八月二三日町長公宅において部長会議が開かれたか否かについて。

所論は、原判決は昭和四五年八月二三日前記のような部長会議があつたと認定しているが、あいまいな端崎の原審証言、同日部長会議のあつたことを否定する趣旨の記載のある端崎および被告人の各日誌、同日欄に部長会議につき格別の記載のない藤沢および蓑谷の各日誌等によれば、同日前記のような会議が開かれていないことは明白であり、このことは、伝馬および藤沢の前記各供述が信用できず、被告人が人口水増しを指示した事実のないことを示すものである、という。

伝馬および藤沢は、前記各供述において終始、昭和四五年八月二三日に部長会議があり、その席上被告人が人口水増しの指示をした旨を確言してやまない。だが、伝馬らがその日時を同日であるとしたのは、直接これにそう記憶があつたからではなく、関連の記憶や記録等を検討した結果、同日が最もよく相応すると推論されるにいたつたからであり(伝馬の別件および当審の各証言、藤沢の別件証言)、同日がそのようにして特定されたものであつてみれば、これに過誤がともなうことも決してありえないことではないというべきである。換言するならば、たとえ昭和四五年八月二三日につき部長会議開催の事実が認められなかつたとしても、このことからただちに、伝馬らの供述の信憑性が失われるとして、被告人が人口水増しの指示を与えたような部長会議は存在しなかつたと結論づけるわけにはいかない。現に、前叙のとおり、端崎は同日のことと特定せずにそのような部長会議のあつたことを認める供述をしているのである。

こうして、問題の部長会議が昭和四五年八月二三日に開かれたか否かは、被告人の本件犯行への関与事実を認定するうえで不可欠なことであるとはいえず、すでに述べたように、昭和四五年八月下旬頃町長公宅で部長会議が開かれ、その席上前記のような経過で被告人から人口水増しの指示がなされたことは、関係証拠に照らして肯認でき、かつ、全証拠によるも、その頃部長会議を開くことが不可能であつたとは断じ切れない以上、この際さらに右の日時の点をせんさくする必要があるとは必ずしも思われない。しかし、所論にかんがみ、以下この点につきいちおう検討を加えてみる。

関係の証拠によれば、原審段階では、昭和四五年八月二三日部長会議が開かれたとする伝馬および藤沢の各供述について、日時の点に関するかぎり格別の疑問が提出されたことはなく、被告人すらもこれを前提にして供述していたところ、原判決後別件の前記偽証事件において、右の日時の点があらためて争われ出し、所論指摘の端崎や被告人の日誌等が取調べられたため、伝馬らも証人として日時の根拠を詳細に説明するようになり、本件においては、当審で同様の立証がおこなわれるにいたつていることが明らかである。(所論中に、原審における右の日時の点に関する証拠調が別件におけるほど十分でなかつたのを目して、原審の訴訟手続に審理不尽の違法があるとする個所があるが、前記訴訟経過からすれば、原審が右の点につき釈明権を行使して主張や立証をうながし、あるいは職権証拠調をおこなうなど、自ら積極的に事案の解明に乗り出す必要があつたとは少しもうかがわれないのであつて、右の所論は失当というほかない。)

そこでまず、伝馬の別件および当審の各証言、藤沢の別件証言等により、同人らの供述するところをみると、同人らは、本件部長会議の日は昭和四五年八月下旬頃の日曜日で、被告人が東京出張から帰つた直後であることなどの記憶にあわせて、被告人の出張関係、出席者の在町の有無、国勢調査事務の進行状況、その他の関連事項についての記録等を網羅的かつ真摯に検討したうえ、同月二三日本件部長会議が開かれていることを確信するにいたつており、その資料や推論の過程にことさら不審をはさむべきふしも発見できないので、同人らの確信は単なる主観の域にとどまらず、客観性を備えた、相当に確度の高いものと考えることができる。

すすんで、主要な反証について概観すると、(イ)端崎の日誌(当庁昭和四八年押第六九号の一四・昭和四五年NHK手帳)の八月二三日欄には、「一日のんびりして過す」との記載があり、同人は別件および当審の証人として、右の記載にまず間違いはなく、同日部長会議は開かれておらず、被告人から前記指示のあつた部長会議は同年九月六日のことではないかと思われる旨供述している。しかし、右の日誌は丹念に書かれているが、その記載は全体として簡潔に過ぎ、省略ないしは書き落しのないものとは思われず、とりわけ、同年九月一四日および一〇月一二日町長室で部長会議が開かれている(前同押号の一八、二〇、二二)のに、両日の欄には「庁内特記事項なし」とあるにとどまるので、部長会議が開かれたからといつて、右の日誌に必ずその旨の記載があるとは言い切れず、端崎の供述する日誌の保管場所、作成状況等をあわせ考えると、右の八月二三日欄の記載から同日部長会議がなかつたとするには重大な疑問が残るというべきである。端崎は右の記載のあることを十分知りながら、二回にわたる原審証言において、八月二三日に部長会議があつたとする尋問に対し、これを否定する供述をしておらず、このことは、同人自身右の記載に疑問を抱いていたことの証左にほかならない。したがつてまた、端崎が日誌の記載にもとづいてした、部長会議は九月六日ではないか、との前記供述もその根拠に乏しい。なお、同人は同じ供述のうちで、本件部長会議が九月二日(同人が羽幌炭礦の会社更生法適用申請を知つた日)以前に開かれた趣旨を明らかにしているので、これからしても、右の点の供述はとうてい措信することができない。

(ロ)被告人の日誌(前同押号の一三・昭和四五年当用新日記)の八月二三日欄に「日曜日につき休養」なる記載があり、これを通常の日誌の記載として読むことができるならば、同日被告人が部長会議を召集したようなことはないこととなる。この点について被告人は、別件の二回の公判、別件の検証および当審公判において、右の日誌(以下、本件日誌ともいう。)を発見するに至つた経緯について詳細に弁明している。しかし自分の刑事被告事件にとつて重要な反証となる自分の日誌が、常用する机の正面に立ててあるのに、原判決後に至るまでそのことに気付かず、捜し出して調査しようともしなかつたということじたいいかにも不自然であつて理解し難い。本件日誌の記載を調べてみると、被告人は一月三一日まで引続き入院生活をしていたのに、同月中は一日、二日、二五日の各欄しか記載がなく、総じて不可解な欠落部分がきわめて多いうえ、問題の八月二三日欄の記載が奇しくも最後であつて、その後はまつたく空白のまま残されており、その理由も判然としない。八月二三日欄についてみると、前記の「日曜日につき休養」との記載に続き、「昨夜大分風があつたが心配した程ではなかつたが本日雨、妙見ばん馬大会、昨日焼尻で行つた演芸大会本日は天売島で行ふ」等とあるうちの天候やばん馬大会の記載がいずれも端崎の前記日誌中にあるものと類似し、しかも、同日が雨であつたとの確証はなく、町役場備付けの庁用日誌(前同押号の二三)の記載によれば、同日の天候はくもりとなつている。一方、本件日誌が発見されたという頃、被告人が端崎から同人の日誌の八月二三日欄の記載内容を聞いたうえ、何故か同人からそれをメモ書きにして受取つている事実(当審証人端崎の供述、被告人の当審供述)を看過することができない。

以上の諸点を総合して考察すれば、被告人の前記弁明にもかかわらず、本件日誌は、少なくとも八月二三日の欄に関する限り、被告人がこれを発見したという頃、端崎の日誌にならつて新たに記載したとの疑いを払拭しがたい。してみると、本件日誌の記載をもつて、八月二三日には部長会議が開かれていないと断ずることはできない。

(ハ)蓑谷の日誌(前同押号の一八・昭和四五年カトレヤダイアリー)および藤沢の日誌(同号の二二・昭和四五年ビジネスメモリー)の各八月二三日欄をみても、同日部長会議が開かれた趣旨を示す記載はなんら見当らないけれども、これらの日誌はいずれもその記載状況からして、予定表に類したものであると認められ、本件部長会議はあらかじめ予定されずに召集されたものであつてみれば(藤沢の前記各供述)、これに関する記載がなくとも、格別異とするに足りない。後者については、さらに、同日の会議は法にふれることでもあり刑事事件に発展することをおそれ、あえて記載しなかつた、と藤沢じしん供述している(同人の別件証言)ので、記載のないのは当然であるともいえる。

(ニ)伝馬は、本件部長会議の頃には会議の当日一回しか町長公宅に行つていないと述べているところ、伊勢田正幸は別件および当審の各証人として、昭和四五年六月下旬頃か七月上旬頃町長公宅の玄関外で伝馬を見かけたことがある旨供述するが、伊勢田の供述は不確かな内容のものであつて、これにより伝馬の供述全体が揺らぐことになるとは思われない。

以上を要するに、伝馬および藤沢が供述する本件部長会議の日の特定につき、これを左右するような反証はなく、昭和四五年八月二三日本件部長会議が開かれたとする原判決の認定は、肯認してよいと考えられる。

三犯行動機の有無について。

所論は、原判決は昭和四五年八月二三日当時被告人が初山別村との合併による羽幌町の三万人特例市制化実現の望みを完全に捨て切つていなかつた旨認定しているが、初山別村との合併の話は同年四月二日同村との間で合同協議会がもたれたのち自然解消の形となつたこと、被告人らは同年六月三日道庁総務部長から市制化を断念するように申し渡されたこと、羽幌炭礦は同年四月合理化案が出されるなど、炭礦の状況が悪化の一途をたどつていたこと、羽幌町の公表人口は同年一〇月の二七、四三六名から昭和四六年三月の一七、九六三名まで逐次減少しているが、被告人が原判示のような市制化実現の意図をもつていたとすれば、右の公表人口の減少は理解できないことなどに徴して、原判決の前記認定は誤認であり、被告人にはそのような犯行の動機はなかつたというべきである旨主張する。

なるほど、被告人は原審、別件および当審の各公判を通じて、昭和四五年六月三日頃北海道総務部長中村啓一から羽幌町の市制化を断念するよう申し渡され、その後同年六、七月頃の少しの間、国勢調査の結果で人口が二万七、八千名あれば初山別村との合併によつて市制化が可能なので、同村との話合いを持つてみようかと考えたことがあつたものの、それ以降においては市制化は不可能なこととまつたくあきらめていた旨供述している。

しかし、右の供述にも疑点がないわけではないのみならず、被告人は捜査官に対し、同年八月末頃まで初山別村と合併すれば市制化が実現できると思つていた旨供述したことがあり(司法警察員に対する昭和四六年一二月二八日付供述調書)、関係の証拠によれば、さらに、

(イ)原判決が犯行にいたる経緯のうちで摘示するとおり、羽幌町は昭和四三年頃からいわゆる「三万人市特例法」の制定を推進する運動に取組み、昭和四五年三月右特例法の成立をみるや間もなく、同町の石炭産業が衰退傾向にあつて、人口の減少が予測されていたにもかかわらず、道庁あてに市制化の仮申請書を提出し、被告人もその間右特例法制定のための全国期成会の副会長を勤めるなど、町議会ともども町民の先頭に立つて市制化実現に努力し、昭和四五年三月三一日道議会で市制化への陳情が採択されたのを契機に、町の広報紙「はぼろ」同年四月号(前同押号の二)で市制化問題を特集し、自らもこれに「輝やかしい前進を」と題する署名入りの記事を寄せて、市制化実現の決意を明らかにするとともに、町民に対し協力を呼びかけるなどしているが、被告人がその後同年八月頃まで市制化を断念するような言動をした形跡はないこと、

(ロ)同年六月三日頃、前記中村は被告人や羽幌町議会関係者に対し、道庁側の見解として、羽幌町の市制施行は見合せてほしい趣旨を告げてはいるが、被告人らの立場を考慮して、国勢調査の結果いかんで態度を決めるようにとの含みをもたせた言い方をし、これを聞いた側では、必ずしも市制化が不可能となつたとは認識していないこと(原審証人中村の尋問調書、原審第四回公判調書中証人清水泰吉の供述記載、原審証人青山芳雄の供述)、

(ハ)初山別村との合併交渉については、昭和四五年二月二六日羽幌町から非公式に初山別村に対し合併意向の打診がおこなわれたのち、同年三月三〇日被告人、羽幌町議会議長等が初山別村役場を訪ね、同村の村長、助役、村議会議長らと会議をもち、羽幌町側で、合併の効果等を説明したうえ合併を前向きで話し合いたいとしたのに対し、初山別村の側からは、住民の意向を聞かなければならず、早急に結論を出すことはできないが、地域振興につながるものであれば考慮するにやぶさかでなく、継続的に検討することに異議はない旨の発言があつて、話合いが将来に持ち越されており(初山別村長作成の回答書謄本、前掲端崎の日誌)、同年八月当時初山別村との合併が絶望的といえるほどの状況にあつたとはうかがわれないこと、

(ニ)同年八月二三日の本件部長会議の席上、被告人から初山別村との合併を見込む趣旨の話が出たことは、伝馬、藤沢はもとより、端崎も終始これを認めていること、

(ホ)伝馬からの依頼で人口水増しの作業を手伝つた者の多くは、これを市制化実現のためにすることと考えていたこと(原審証人斉藤優、同花村春光の各尋問調書、同上阪光雄の供述、林純司、池田祐政、松井道弥、前田保巳、竹中繁夫の検察官に対する各供述調書、川村秀次の司法警察員に対する供述調書)、

(ヘ)羽幌町の石炭産業は原判示のとおり、昭和四〇年頃を境にして衰退の傾向をたどり、昭和四五年春には、石炭坑三山のうち築別坑が閉鎖され、作業員等が他の二山に配置転換されることもあつたが、被告人をはじめ町関係者らは同年八月当時においても、炭礦が往時の隆盛を取戻せないにせよ、新礦区の開発、企業合理化、国の助成等によつて、町の基幹産業として存続できるものと考え、かつ、そのための施策をこうじ、同月二六日頃炭礦側で会社更正法適用申請を決意したことを知つて、これに驚くような有様であり、しかも、その後も炭礦の維持に懸命の努力を続け、同年一一月の閉山はむしろ予期しない事態と受取つていること(羽幌町を市とすることについての申請書(前同押号の一二)、広報紙綴(同号の一六)のうち昭和四五年一月号および昭和四六年一月号、当審証人古川和美の供述、検察事務官作成の前掲報告書謄本等)、

(ト)羽幌町の公表人口が昭和四五年一〇月以降逐次減少し、前記特例法の有効期限である昭和四六年三月には一万八、〇〇〇名をも割り込むにいたつていることは、所論のとおりであるけれども、これは、国勢調査後の同年一〇月下旬から翌一一月上旬にかけて炭礦の閉山が確定、実施され、誰の目にも、人口の減少ひいては市制化の不可能なことが明らかとなつて、実態人口を事務上の操作によつて隠しおおす必要もなくなつたため、公表人口を実態人口に順次近づけて行つた結果であるにすぎないこと(当審証人伝馬の供述、原審証人山村勉の尋問調書、前記酒井の原審第七回公判における供述、羽幌町人口推移表(前同押号の四))、などが認められる。

そして、これらの諸事情を総合して考えるときは、被告人の前記右公判供述は措信しがたく、被告人が本件部長会議当時初山別村との合併による市制化実現の望みをもつていたことは、これを認定するにかたくない。

四被告人の本件市区町村要計表に対する決裁について。

所論は、原判示市区町村要計表(以下、本件要計表という。)は羽幌町の決裁規定に反して、町長たる被告人の決裁印も、これに代る代決印・後閲印も得ないまま、被告人の不知の間に、総務課で保管中の町長の職印を使用して作成提出されるにいたつたものであるから、被告人が本件要計表につき刑事責任を問われるいわれはない、という。

案ずるに、本件実行行為は、伝馬が被告人作成名義の内容虚偽の本件要計表を作成し、これを留萌支庁長に提出したことにあるところ、伝馬は、羽幌町における国勢調査事務の所管責任者として本件要計表を取りまとめたが、羽幌町事務決裁規程により本件要計表につき町長までの決裁を受けねばならなかつたのに、助役である前記酒井までの決裁を受けたのみで、町長たる被告人の決裁がないのを看過し、そのまま通常の文書作成例にしたがつて本件要計表に庶務課長保管の町長印を押捺し、これを留萌支庁に届けるにいたつたことが明らかである(国勢調査要計表世帯名簿(前同押号の八)、当審証人高橋偉雄、同伝馬の各供述)。

しかし、右の決裁は町規程で定められているものとはいいながら、本件要計表についていえば、その控の上部欄外にゴム印で決裁印の欄を押捺し、これに決裁者の押印を得る形式のものにすぎないこと、ことの実際において、決裁印を貰い忘れたまま事務を処理し、監査に際してようやく決裁印もれを指摘される例も少くないこと、伝馬をはじめ、酒井や藤沢らも本件要計表の控に被告人の決裁印のないことを重大視していないこと、伝馬は本件要計表を提出する数日前町役場内で、被告人に対し、本件要計表に記載する人口数を報告し、被告人の了解を得たこと(右の各証拠、原審第四回公判調書中酒井および藤沢の、同第三回公判調書中伝馬の各供述記載)などに照らせば、本件要計表は、これに被告人の決裁を欠くことの一事により、その公文書としての性質まで損われることになるとは考えられない。

そして、本件要計表が原判示のとおり被告人の参画した謀議にもとづきその結果として作成・提出されたものであつてみれば、仮に被告人がその具体的経過事実を認識せず、事後にもこれを確認していないからといつて、被告人が本件虚偽公文書作成、同行使の点につき罪責を免れるとすべき理由は少しもないといわなければならない。

以上のように考えて来ると、原判決のした本件共謀の認定にはなんらの過誤もなく、被告人が本件犯行の罪責を負うことに疑問の余地は残らない。控訴趣意は理由がないに帰する。

よつて、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却し、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文によりその全部を被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(岡村治信 横田安弘 宮嶋英世)

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